あのときの不思議な世界

スリランカの新聞で最近時々見かけるのが内戦当時の戦地の様子を伝えるもの。
これってすごいんじゃないかと思うんだけど、第二次世界大戦が終わってから今になって当時のことを話してくれる人がなかなかいないということで、当時の様子がわからなくなっているという話は日本でもよく取り上げられている。
それは当時それを体験した人たちにはそれが辛すぎて、話すことができないという心の問題もあるというのはうなずける。
私の家も戦地へ行って大変な思いをしたはずの祖父はほとんどと言っていいほどそのときの体験どころか戦争中の話さえもしなかったから、私もかなり大きくなるまで祖父が戦争に行ったことも知らなかった。
で、逆にスリランカは今どんどんそういった内戦当時の状況が伝えられている。
たとえばLTTEによって皆殺しにされた村の様子、その中で生き残った人たちの写真、そのことを今後に伝えるために残された石碑。
小さな島国だけど激戦地だった場所の情報はみんなあまり知らずに普通の生活をしていたからこそ、そんなに遠い場所の話でもないのにびっくりすることがたくさんある。
そんな中で今月の初めに新聞に載っていたのが戦争が終わるころの激戦地の車の様子。
終戦したときにスリランカにいた私でもちょっと信じられない話が。
激戦地にいた人たちはもちろんだけどみんな生きるか死ぬかの瀬戸際で日常生活を送っていた。
だからこそその中での食料の調達がとても大事で、余暇を楽しむようなものはどんどん生活から削除されていく。
この記事の後半では戦争の終わるころの乗り物の価値が書いてあったけど、当時バイクがココナッツ2個、新車のスリーウィラーがココナッツ5個。ドルフィン(ハイエースのようなバンの車)、プラド、日本だと農業用に使われるトラクターなどの車がお米一袋(50kgほど)という価値状態になっていたのだという。
物の金額がすでに紙幣や硬貨を飛ばして物々交換になり、食べられない車なんかよりも食料が生きるためのもっとも重要で高価なものになっていたということか。。。
この記事の最後には壊れたトラックを引いていく人に出会ったこんな話があった。
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幸せに生活していたときに210万ルピーで買ったトラック。[[EE:SE42F]]
戦争が終わるころ、子供がおなかを空かせていてどうしようもなかったため、少しのハール(お米)とトゥナパ(カレーパウダー)と交換する[[EE:SE341]]といって車を売ろうとしたけれど誰も買ってくれる人がいなかったという。
どうしようもなくなったため、そのままこの車を置いて一家で逃げたところ、戻ってきてみたら車は見つかったものの使えるパーツはみんな持っていかれてしまっていた。
戦争で本当に思いも寄らないことになったと言いながら、それでも残った車の残骸を売れば20万〜30万ルピーにはなるだろうとこの人は自分の車を運んでいく途中だったという。
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戦争はそれまでの生活を一変させる。
内戦が終わって約3年。でもこういう話を少しずつでも載せているとそれがすべてではないとはいえ私たちはそのときの生活の状況の一部を知ることができる。
私もこの新聞の内容すべてを書くことはできないし、この新聞の記事にだってきっとここには書ききれないような話もたくさんあったんだろうけど、こういうこともスリランカの人に伝えるだけでなく、もっと広くみんなに知ってもらうことができればいいと思う。
私にできるのはこういったものの切れ端を日本語で紹介することだけだけど、それでもこれを読む日本の人たちが内戦のときの様子をまた少しでも知ってスリランカの情報とすることができますように。
また新聞でも気になる記事があったら紹介するようにしますね。

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