どこまでもスリランカ

母語の力ってすごいな。
そう感じることって時々ある。
母語で聞くからこその言葉の広がり、深みを感じることって必ずあると思う。
例えば何かをした時に
「本当にありがとう!」
と言われてうれしくなることってある。
スリランカでの滞在が長くなって、シンハラ語にどっぷり浸かってくるとたとえ日本語が話せるスリランカの人とでもどうしてもシンハラ語で話しをしたくなるのはそれが一番の理由かもしれない。
その人がどのような気持ちになっているのか、
うれしいのか、とてもうれしいのか。
悲しいのか、とても悲しいのか。
そういう思いを言葉の端々から読み取ることができるから。

すごくうれしい!

とスリランカの人に日本語で言われるより、
ハリマ サントーサイ!(とても うれしい!)
と言われた瞬間、その声のトーン、心の弾み方が一緒に心に流れてくる。
その目に見えないけど心に響いてくる感情が理解できること、心を共有した感覚。
その気持ちが更に私をシンハラ語の世界に引き込んでいる気がする。
そんなKeikoの普段の生活の中では正直今シンハラ語を話しているのか、日本語を話しているのか考えていないことって多い。
独り言はシンハラ語。
とっさに出てくる言葉もシンハラ語かな。
寝ぼけてシンハラ語を話していることがわかったのはもう3年以上も前の話(笑)
とっさに日本語が出てくることもなかなか少なくなりました。
今の生活は本当に9割方がシンハラ語だからむしろ最近は日本語で話をする時の方が言葉を選びながら言っていることが多いかもしれない。
1割の日本語の中に入っているのはこのブログやメルマガ、メールの返信なんかで日本語を使っているからなんだけど、これがなかったら本当に・・・
今頃大変な事になってたかも。[[pict:ase]]

日本にいた時には日本語が大好きで、本屋さんで立ち読みなんてしょっちゅうで、いろいろな言葉も知るのは好きだったし、辞書をあれこれ見ては楽しんでいたこともあったのに、最近は徐々に日本語の間違いも目立ちますよね、このブログ。
すみません、日本語もう少しがんばります[[EE:AEAD9]]
でもそのくらいシンハラ語が好きなんで。

そうそう、一時期本当にシンハラ語と結婚したいのに、どうしてシンハラ語には命がないんだろう??って悔しく思ったくらいなんですよね。
いや、本当に真剣に。[[EE:AEB50]][[pict:ase2]]
もしシンハラ語に命があったら即「付き合ってください!」って言ってたと思うけど、
「嫌です!」って断られたらのことを考えるとそれも辛いな〜[[pict:break]]なんて。
妄想の世界ですね。[[pict:alien]][[pict:ase2]]
何でこんな話かって、今日は日本語のできるスリランカの人と話をしていたけど、シンハラ語で話をしたほうが気持ちが良くわかってしっくりくるな〜って思ったんで。
どこまでもスリランカ。
どこまでもシンハラ語。
日本語ももちろん素晴らしいけど、
シンハラ語もすごく素晴らしいんですよ。
だから今のスリランカの人たちにももっとシンハラ語がんばって欲しいな。
外国人の私から言うのも変だけど、そう思うんですよね。

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