カラナワーとカラガンナワー

シンハラ語

シンハラ語を教えていると結構な確率で聞かれるのが
「カラナワーとカラガンナワーってどう違うんですか?」
って質問。

そうねぇ、なかなか言葉って難しいですね。
と思いつついつも
「カラナワー(කරනවා)」は「する」、「カラガンナワー(කරගන්නවා)」って言うと「カラナワーよりもしっかりやる」という意味合いになりますって説明します。

例えば、「書く」という言葉の「リヤナワー」を「リヤーガンナワー」ってすると「書き留める」という意味合いになる。

「アディナワー」という「引っ張る」という言葉を「アダラガンナワー」にすると「引っ張り出す」という意味になる。

もちろん時と場合により訳し方はその前後の文章によって変わるし、日本語での訳が場合によっては同じになってしまうこともある。
そこをどう考えるかっていうと、深く考えないのがまずは一番😅

言葉は常に人と共にあって、生きている。
みんなが自分の思ったことを相手に伝えるために使っている。
厳密に言えば使い方が間違っているとか間違っていないとか、そういうこともあるかもしれないけど、まずは相手に言いたいことが伝わることが大事。

言葉が違えばその後ろにある文化や歴史、気候、宗教、いろんなことが違ってくる。
その裏付けが違う場所で人々に寄り添い、発達してきた言葉は他の国の言葉では表せないこともたくさんある。
だから、一つの単語を一つずつ訳して対応させるのは無理がある。
世の中には日本語にあっても他の国にはない言葉があるように、他の国にあって日本語にない言葉もたくさんある。

文章を書くとき、確かにカラナワーよりもカラガンナワーが適している場面はある。
でもそれを日本語に訳すとき、まずはそれをカラナワーで捉えてざっくり訳してみて、その上でもう少し日本語として伝わり易いように変化させた結果カラガンナワーの状態にできるのであればすればいい。できないようであれば気にしない。
シンハラ語を学ぶとき、もちろんそれ以外の言葉でも言葉を一対一で一つずつ対応させて直訳していくよりも、まずは全体の意味がわかるようにどんどん訳してみるのがいいと思う。

それを積み重ねてたくさんの言葉と出会い、場数を踏んでいくといつかもう一度最初に学んだ資料を見直したとき、「ああ、これはこの言葉ではなくこっちの言い方の方が伝わるんだな」って自分自身の中でも腹落ちする。

最初から腹落ちを狙ってもなかなかできないし、それを始めると「あ〜、難しい!」に行き詰まり前に進まなくなる。

私がいつも思うのは「あ〜、難しい!」にならない学び方。
小さな子供たちが日々新しい言葉を覚え、使えるようになっていくのは「難しい!」って思わずにどんどん新しいことを吸収していくから。
子供たちができるなら、私たちにもできるはず。
どこの国の子供だって日々話している言葉を「難しい!」って思わずに生活しているし、そう思って話すのをやめたって人にはもちろんだけど出会ったことがない。

そういう時に思い出すのは2008年にホームステイしていた先のアンマー(お母さん)のこと。
アンマーは私にシンハラ語を英語訳で教えてくれたけど、この単語の意味は?と聞くと必ず
「それはやっちゃダメ。その単語の意味がよく分からなくても文章として捉えなさい」
って単語の意味は教えてはくれなかった。
今考えるとあのアンマーはすごかったと思う。
そして今私が教える側になってその言葉の意味がよくわかる。
それこそ腹落ちしてる😆

私のシンハラ語教材ではまずは一つ一つの単語を拾っていく作業があるけど、それがシンハラ語と日本語の絶対の訳ではなく、その拾った単語を並べてざっくりと見て意味を捉えて内容理解をしていってもらう。(説明もしているし、みなさんそうやってくれてるはず!)
どちらかというとフィーリングで理解していく感じ。

カラナワーとカラガンナワーはちょうどそのフィーリングが大事になる言葉。
最初の頃は分からなくても大丈夫。
今学ぶことを続けて積み重ねていって、いつか見直した時に
「あ〜、なるほど、今ならなんとなくわかる!」
そう思ってもらえたら私にとっての大成功♪なのかもしれない。

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