グナダーサ・アマラセーカラ

試験勉強紹介第4弾
そろそろ難しい話も飽きてきたかもしれませんがもう少しだけ我慢してくださいね。
現代のシンハラ語文学はこれまた発展してくるスリランカの社会のさまざまな問題点を取り上げたものが出てくる。
そんな中でグナダーサ・アマラセーカラという人が書いた短編について。
彼は人間、経済、政治、急成長する時代に様々な問題短編で表現した。
その中でも多く取り上げられているのがスリランカの町と村との文化のすれ違いについて。
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村でほどほどの生活をしていた人たちがより良い生活を求めて町に移り住んだ時に見られるのは
財産が増えて行くにつれ楽しさがなくなっていく。
お金がなくなっていくと人との友情を忘れていく。

ということ。
村で生まれた人が国の教育を受けて大学へ行き、町に住むようになる。その後町で就職すると村のことを忘れていく。自分の目標となっていくのは大学の講師かそれと同等の良い職探し、それに見合った生活、結婚となる。
こういった人々が村へ帰省するのは本当に時々であり、終わりのない仕事で人生の時間を費やしていくのがその理由である。
そんなアマラセーカラの話の一つに町に住み、良い結婚をした後、久しぶりに村に戻ったある日、主人公が学校に行って考える場面がある。
「あの頃あった新しい井戸と呼ばれていた深い井戸も今は茂みの中に隠れてしまっている。深い井戸と呼ばれていたあの井戸は今見ればなんて小さな井戸なんだろう。」
村から町へ移り住んだ主人公はこの瞬間、人生の虚しさを思うことになる。
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また人の心に起こる悪賢い考えのために良い人生を送ることができない様子も別の短編で表わしている。
村で貧しい暮らしをした後、良い教育を受け、良い職を得た後、人によっては自分の両親、親族、親しい人たちを忘れてしまう。
ある短編の主人公は自分の妹の唯一の息子を引き取ってほしいと言われるのが気に入らず、妹と息子が彼に会いに来ることになるその日にマダカラプワ(アルガンベイ)へ旅行に行く予定を入れてしまう場面がある。
その目的は妹に思い知らせるためであった。
ここではアマラセーカラは村と町の間にある心のすれ違いを表現している。
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また別の話では、村の学校で教育を受けて大学に入った若者が最後に自分の母親の言うことが合理的でないと文句を言う様子を見せる。
なんでも理屈で決めていく事ばかりする大学の若者は町の文化に染まっていく。
母は学校の先生だったが、ある日、わざわざ学校の休みを取り家に帰ってきた息子を呼んで、彼女が勉強した学校や村の人に会いに行こうと誘うと、息子は
「なんで住んでもいない村に行くんだ。あそこに僕たちの何があるというんだ。」
という。
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ここに紹介したのは短編の一場面だけだから話の内容も少しわかりにくいと思うけど、どれも生活が変わる前と変わった後の心の変化が上手に表現されていると思う。
小学校から中学校へ、中学校から高校へ、簡単に言えばそういった小さいときにでも学校が変わることによって生活の中心が変わり、中学校になると小学校の友達と疎遠になり、高校になると中学校の友達と疎遠になる。
そういった瞬間をとらえているのがこのアマラセーカラの短編に込められているテーマじゃないかと思う。
わくわくする話というわけではないけど、国を超えてつながる何かがある気がする。
そういった意味で人生、何が大切なのか、もう一度考えられる作家なんじゃないかな?

最後にもう一つ。
グナダーサ・アマラセーカラというのは確かにスリランカの文学について重要な一石を投じた人で、大学院でも彼の小説についてわざわざ時間を取るほどに現代文学で重要と見られている人なんだけど実は過去の人ではないというのがポイント。
まだご健在です。
大学院で学ぶ現代文学に挙げられる作家の何人かは健在であるという事実もより現代につながる歴史を感じる瞬間。
過去の話だけど過去じゃない。同じ時間をまだ生きていられることの感動もまたひとしお。
それもまた「今、知らなきゃ!」と思わせられる瞬間だったりする。

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