スリランカのクラヤ

これも実は大学院の授業で文化として教えられるスリランカのクラヤ(カースト)について。
インドではカーストと言われ、この言葉を聞くとイメージとしては位や身分のような上下関係をイメージしてしまう。
このカーストと言うのはシンハラ語ではクラヤと言われるんだけど、実際それを日本語に直すと「職能」になる。
ここでわかるのは
カースト=クラヤ
でも
位、身分≠職能
ということ。
スリランカの文献で最初にクラヤという言葉が出てきた時点ですでにかなりの数のクラヤがあったという。
このクラヤという言葉がカーストと近くなってしまった理由はその職業が違うことに関する問題があったからみたい。
簡単に言うとクラヤ(職能)が同じ人たちの生活習慣はだいたい似通っていて、着る物、習慣、食事、そういったことで驚くことが少ないため一緒にいてもさほど問題がない。
だからこそ同じクラヤの人たちは一緒になって生活をするようになり、婚姻関係もこの中で結んでいくことによって結婚する両人もすんなりと新婚生活を始めることができるという利点からクラヤを分けるようになったのだという。
クラヤというのは本来そういう文化から来た、生活のための人々の一つの知恵だった。
でもその生活習慣の違いが徐々に上下をつけるようになり、カーストのような状況になっていく。
実際にスリランカでは今60歳くらいの年の人たちが小さいころは今よりもこのクラヤについての考えが厳しく、小学校のときにクラヤのことを知らずに友達の家で学校帰りに紅茶を飲んで帰っただけで、足がはれ上がるまでお父さんから叩かれてその時に初めてクラヤについて知った。
そんな話も聞いたことがある。
授業の中で例になった笑い話では、ある家に訪ねていった人がその日そこで泊まることになり、ござを渡された。
ござはいつも巻いてあるので広げてもすぐに丸まってしまう。
それを使うためには少し広げてそこに自分が座り、ござを広げると同時に自分が重しになる状態で広げて寝ること。
でも訪ねていった人はクラヤが違ったために、生活習慣も違い、普段ござを使ったことのない人だったのでうまく広げることができず、朝まで眠ることができなかった。
次の日、家の主人が「よく眠れたか?」と聞いたところ
「こんなものを渡して眠れるかとはなんだ!」
と怒って帰っていったという。
少し考えればわかることだし、この話だって少し大げさになっていると思うけど簡単に言えばそういうちょっとした、本当にちょっとした違いのこと。
本当に些細なことが経験したことがあるかないかでわからないということ。
それがクラヤの違いで時に大きな問題になるということもあるということ。
ただ、最初にも言ったようにこのクラヤというのは職能のこと。
大工の息子が大工になればクラヤは変わらないけど、最近は親子とも同じ仕事をするとは限らない。
だから実家のクラヤが自分のクラヤになるかというのも別の話。そこで変わることもある。
そしてもっとおもしろいのは一応クラヤというのは婚姻届を出すとき、子供が生まれたとき、そういうときにクラヤの欄に書かれるんだけどそれも時代の流れで言い方が変わってきたりもする。
今までクラヤの欄に「農業」と書いていた人たちは今は徐々に「商売」と書くようになっているらしい。
というのも、今のスリランカだって本当に農業だけで生計を立てていくことはできず、そんなことは誰でもわかること。
だからこそわざわざ「農業」と書かず「商売」と書くようになってきているんだとか。
これをはじめたのは米農家ではなく、野菜農家と聞いた。
野菜を作るのも仕事だけど、それを売るのもまた仕事。
であれば「農家」でなくて「商売」でいいじゃないかと考えるようになったらしい。
これが徐々に広まって、米農家でも「商売」と書くことがあるらしい。
「スリランカでクラヤは今はないみたいなものってなの?」って聞かれることもあるんだけど、そういうわけでもない。
出生証明書や婚姻届、各種証明書にはたいてい「クラヤ」を書く欄がある。
普段はあまり気にしていなかったとしても、重要な場面でやっぱり忘れずに登場してくる。
でもこういう話を聞いていくと、結局日本と似てる部分があるんじゃないか、とも思う。
クラヤ=職能と思うとちょっと耳慣れないけど、職業と考えれば日本でだっていろいろな場面で聞かれることも多い。
日本だって恋愛結婚なら相手の家のことよりも本人のことを信じて結婚する。
でもお見合いなら?
家の場所、家族、職業、学歴、そういったものを知った上で結婚する。

細かい分け方はしていなくても「両親は会社員だったから自営業の人とはちょっと・・・。」そういう将来結婚する相手の希望を聞くことだってたま〜にある。
すごく大まかに言えばそれだって生まれたころからの生活をなるべく変えたくないからこその言葉。
人生は決められたものではないけど、それでも自分の考えられる範囲内で幸せになりたいと考えて取る本能的な考えとすれば理解しにくくはない。
これって土台の部分で職能を気にしてるスリランカと似てるような気もする。
スリランカでも今後はクラヤについての考えはもっと自由になっていくだろうとは言われている。
でもそれでも完全になくなることはないだろうとも言われている。
クラヤはカーストとは違う。
でもとても複雑に人々の生活に入り込んでもいて、確かに簡単な問題でもない。
でもそれもスリランカの文化と歴史の詰まった一つの言葉。
差別や上下関係ではなく、それもスリランカに発生した一つの文化として大学院では勉強もするんですよ。
*クラヤというのはそれでもやっぱりとても難しい言葉です。
今回は文化として書きましたがいろいろな考え、側面がある言葉なので
これが全てと思わず、たくさんの中の一つの考えとして捉えてくださいね!

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