施しをする人たち

前回はヒガーンニャ(物乞い)の話だったけど、
今回はそのヒガーンニャの人たちに施しをする側の話。
(『物乞いの人たち』は2014年2月24日参照
ヒガーンニャの人たちはたいていは道に座ったり、バスに乗ってみんなにお金がない事を訴えたりしているわけだけど、日本では道路に座ってる人たちにあまり施しをする行為はしない。
している人もあまり見たことがないんだけど。
でも、スリランカではそういった人にお金を渡す光景を良く見かける。
バスに乗ってくることをドライバーさん、コンダクターさんも認めてあげているようなその様子と施しをする人たちをみて、
「だからスリランカは発展しないんだよ!」
と言った日本の人とも会ったことがある。
日本ではそういう人たちに対して、
仕事をしないで人のお金をもらうのはその人のためにならない。
自分たちも必死に仕事をしてお金を得ているんだから、仕事がないからと人のお金を宛てにしないで自分で稼ぐことを考えなければいけない。
だからそういう人には施しをするのは逆にその人のためにならない。
そんな風に考えているところはあると思う。
でもスリランカではみんなが頻繁に施しをしている。
これって何でこうなるの??

スリランカの人たちが優しいから?
人が自立をするということを良く考えていないから??
その人たちの未来を考えてあげるほどの発展をしていないから??
いろんなことを考えるかもしれないけど、理由はそこじゃない。
その本質にある理由を知ると私は逆に
日本はたぶんそういう考え方はこれからもしないだろうな。
と思うんですけどね。
その本質というのは・・・
「徳を積む行為」であるということです。
ヒガーンニャの人にお金を渡すことがいいことか悪いことかではなく、それで徳を積み、何か小さな願い事をしているからだったりもするんです。
例えば・・・
家族が体調を崩してしまっている
最近運がないな〜と思った
来世もより良くありたいと思っている
そういう漠然とした問題が自分側にあることがあります。
施しをする相手は誰でもいいんです。
もっと言えば施しをする相手が前回の話のように大富豪のヒガーンニャでも構わないんです。
その人に施しをした時点でその人の願いは完了なんですよ。
普段施しをしていないんだけど、お母さんの体調が悪いって言うから、早く良くなるように今日はちょっと施しをしてみた。
それはお母さんが良くなるようにという願いが込められているからなんですよね。
じゃ、それを受け取った人が大富豪のヒガーンニャだったら?
そんな人にお金を渡してもいいの?
そう思うかもしれませんが、それはまた別の話。
もしヒガーンニャがウソをついてお金をもらい使っていたとしたら、それは施しをした人が悪いのではなくてそのヒガーンニャの道徳の問題。
その施しの使い方が悪ければいつか必ず報いを受けるだろうことは自分で考えておかなくてはいけないこと。
そしてそれはブドゥハームドゥルヲ(ブッダ)も知っているだろうし、その報いは来世に現れるというのが仏教徒の考え方。
今回は人として生まれたとしても、
次の生は犬になるかもしれない。
牛になるかもしれない。
でも良い行いをしていれば、人として生まれ、更により良い生活ができるようになる。
だからみんな悪い事をしないようにしようとするわけですよ。
そうして考えるとヒガーンニャがウソをついていたとしたら、それはどこかで必ず報いを受ける。
それはちゃんとブドゥハームドゥルヲが知ってくれている。
自分が施しをしたこともちゃんとブドゥハームドゥルヲは知っている。
だからそのヒガーンニャについてあれこれ考えることはしない。
あくまで自分のしたことは施しをするという徳を積む行為。
そういう考え方なんですよ。
こういう考え方って日本ではなかなかしないと思うんですけどね。
私もこの行為のこういった考え方を聞いたのは1年ほど前。
デング熱で入院した時に付き添いに来てくれていた田舎の家の家族。
退院するその日に荷物をまとめていたところ、1人の男性が近づいてきた。
「今日、退院できることになったんですけど、家に帰るまでのお金が無くなってしまったんです。いくらかいただくことはできませんか?」
よく聞くと家に帰るまで300ルピーほど必要なのにそのお金がないという。

その話、本当か!?

そう思ったもののKeikoも今日退院だし、入院するといろいろと大変なのはお互いにわかっている。
かわいそうに思ったアンマーが、
「残りの200ルピーは自分で何とかしなさい。」
と100ルピーを渡したところ、お礼を言ってその人は隣のベッドの人のところへ残りのお金をもらいに話をしに行った。
同じように不審に思ったアッカ(お姉さん)が私に
「Keiko、あの人注意して見てたら、ウソをついてるかどうかわかるかもよ。」
とささやいた。
300ルピー足りないというからアンマーが100ルピー渡した。
足りないのはあと200ルピー。
あの人が200ルピーをもらってもお金をもらいに行くのを止めなければウソをついていることになる。
アッカと2人で見ていたところ、次の家族も100ルピーを渡し、その次の家族も100ルピーを渡したのが見えた。
これであの男性はもう家に帰ることはできるハズ。
でも!
その男性はその後もみんなのところを回り続けた。
ということで、あの人はウソをついているということがもうその場でわかってしまった。
でもそれがわかってもアンマーは
「あの人へ施しをする意味はKeikoの体調がここからも問題なく快方に向かうことを願ってしたもの。
あの人がウソをついていることはあの人の心の問題であり、それはブドゥハームドゥルヲも知っていることでしょう。だから私たちのすることはもう何もないし、渡したお金を返してもらう必要もないのよ。」

そう言って終わりだった。
病院の前にももちろんヒガーンニャがいたんだけど、普段そういった施しはしない田舎の家の家族なのに、私が入院していた時にはみんなたびたび施しをしていたんだと後で聞いた。
結局はそういうことなんだと思う。
その人がどのような生活をし、社会全体が良くなるかどうかではなく、これは施しという徳を積む行為。
だから自分のお金が、あの人の人生がという問題ではなく払ったお金はそれよりも価値あるものに変わるという意識。
持って行った人がどうのじゃない。
これがスリランカで施しをする人たちの1つの理由。
いろんな考え方があるし、だからといって私も施しをするようになりましたということではないけど、この考え方を聞いてから施しをする人たちを見る目が変わった気がする。

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