死というもの

最近、スリランカで死亡事故が多いな〜って思ってるんですけど、ちょっと不思議なのは事故に会う瞬間の映像をけっこう頻繁に見かけること。
日本で事故死した場合の映像ってそんなに出てこないと思うんですけど、スリランカだと1週間に1つ2つは映像が残ってた!ってネットやメディアで紹介されてます。
というのも防犯用にお店や家で設置していたCCTVカメラがちょうどその方向を向いていて、事故の瞬間が写ってました!
っていうのが多いみたい。
それだけ「どこもかしこもカメラだらけ」ってことなのかもだけど。
(そういえば知り合いも自宅の防犯カメラの映像が携帯電話でチェックできるようにしてたな〜って思い出したり。)
政府が
「道路にCCTVカメラを設置します。」
って以前発表した時にはプライベートが覗かれる!ってみんなびっくりしたけど、それ以前に個人で設置したカメラにもう私たちのスリランカ生活も十分記録されてるってことなんでしょうね。
(ちなみに政府が設置したカメラは事故が多い交差点などにも設置されていて、時々事故特集みたいなコーナーで放映されるので、私もそれらの交差点を通る時にはとても緊張します。事故防止には一役買ってるのかもですね。)
そんな事故とか事件の話を聞くことが多いスリランカ。
かなり前に友人と話をしていて殺人事件についての話になりました。
「日本では死に対して興味を持って殺してしまうっていう猟奇殺人って時々聞くけど、スリランカでそういう殺人ってないの?」
友人の答えは
「たぶん無いね」
だったんですが、その答えがこんな内容でした。
*  *  *
日本は裕福な国で、安全で、医療も発達していて、スリランカよりも死というものが生活から少し離れてるんじゃないかと思う。
スリランカは最近まで内戦があったし、そうでなくてもまだまだ不自由なことが多い日々の生活の中で
「学校に行く途中に生徒がトラックに轢かれて亡くなった」
「あそこのおじさんがケンカをして亡くなった」

そんな話はとても多くて、「死」に直面すること、その現場を見かけることがとても多いし、一歩間違えば死んでいたと感じる瞬間ももちろん多い。
みんないくら気をつけていても死がどこからやってくるか分からない。
そういう状況にとても近い状態に置かれているということを感じる機会が本当に多いと思う。
お葬式でも亡くなった人の姿をみんなに見せるわけで、その時に例えば事故死していればどのように亡くなったのか、その悲惨さが嫌でも分かってしまう。
そういう「人が死ぬ」という状況が身近にある中で、「死ぬということはどういうことだろう?」って考えて人を殺してみたくなるという心理状況にはならないでしょう。
普段から「死ぬ」という瞬間に出会うことが多いわけだから。
だからこそ、スリランカではまだ殺すことまでで精一杯で、殺人依頼、遺恨による殺人、そういうものがほとんどで、「死ぬ」というものに執着しての殺人って無いって言っていいと思う。
もちろん、スリランカが今後日本みたいに発展していけばいつかは出てくるとも言える話だけど、まだそこまで発展していないスリランカでは身の回りで死んでしまった人を頻繁に見かけることで、「死とは何か」って考えるほど「死ぬ」ということが分からなくなっていないから。
*  *  *
確かにスリランカって死が近いと思う瞬間は多くて、私も実際にバスに乗っていてそのバスが私も毎日見かけていた酔っぱらいを轢いてしまったこともありました。
(雨が降っていたこともあって道路には小さな血の川ができてたけど)
そういうことに出会う機会が多いスリランカで、確かに「こんなに簡単に人の人生って終わっちゃうの?」と思うことはあっても「死ぬってどういうことだろう?」って思うような瞬間はそうそうない気がします。
で、そんな会話をした友人の補足、
*  *  *
ただし、人の頭って面白いもので時々あるのが、例えばお店で「あれを盗んで来よう」と思っていた人が盗もうとした瞬間、お店の店長に見られていることに気付いたのに盗もうとしたものに手を伸ばして盗んでしまって捕まった。
っておバカな話ってけっこうあるんだよね。
盗もうとしている瞬間、それを止めなくてはいけない何かが起こっていても自分の頭は
「盗むという計画を完了させよう」
ということでいっぱいで
「見られているのは分かっていたけど、止められなかった」
って不思議な事を後で言うことになるんだよ。
そういう意味で、おそらく殺人事件の何人かは
「あの人を殺そう」
と思って行った後、殺す必要はなくなってしまったのに、そのためのにどうしたらいいのか分からなくなってしまって、もうまっしぐらに、まずは殺すことを完了させようとがんばっちゃった、そういう殺人っていうのはあるんじゃないかと思うよ。
*  *  *
確かに、普段しない事をしようとした時には頭が混乱しやすいだろうし、通常の判断ができなくなった揚句、頭の中には事前にイメージした計画がしっかり残っていれば、とりあえずそれを遂行するために一生懸命になっちゃうのかもですね。
そんな「死」との距離が近いスリランカだからこそ、子供の学校の送り迎えに行ったり、学習塾まで子供と一緒にやって来て、授業が終わるまで塾の外で立ち話をしているお母さんたち。
一見すると無駄な時間に思えるかもしれないんですけど、子供の命、安全を考えるとやっぱり他人には任せられない、親だからこそいざという時には身を張って子供を守ろうとする行動が取れるってことなのかもしれないですね。
ホント、すごく不思議なんですけど、小学校で土曜日の一斉下校時に繰り返し
「自分の命は自分で守ろう」
って全校生徒で声を合わせて言っていたのをスリランカで良く思い出すようになりました。
あの時、私がみんなと一緒に声を合わせていたのは、このスリランカ滞在に備えてだったんですかね〜?(なわけない。笑)

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