牛の頭の話

先日、『ラトゥがいなくなりました。』(2018年8月7日)
という記事を書いたんですが、
それを書きながら
スリランカの、
あるジャナカター(説話)を
思い出していました。
それが『牛の頭の話』というお話。
短い話ですが更に端折って書くと・・・
—————————————-
あるところに物を大切にしない女がいました。
その家の庭の木には牛の頭が掛けてありました。
ある日、この女がテミでもみ殻と米を分けていましたが
テミに穴が開いていたため
その日も米がどんどん落ちて捨てられていっていました。
その時、「ふふふ」と誰かが笑う声が聞こえました。
女は辺りを見回しましたが誰もいません。
もう一度もみ殻を飛ばすと今度はさっきよりも
はっきりと笑い声が聞こえます。
女が上を見上げると木にかけてある牛の頭が
歯をのぞかせながら笑っていたのでした。
女はとてもびっくりして
「なぜ笑っているんだい?
お前が笑っているのは私の事かい?」
と聞くと牛の頭は
「いいや。私が笑っているのは私自身のことさ」
と答えました。
女がなぜ自分のことをそんな風に笑っているのかを聞くと
牛の頭はこう答えました。
「私も昔、人間の女性として生きていた。
あの時、私はとても物を大切にして生活をしていたんだ。
でもある日、洗った米をかまどにかけようとした時、
かまどの脇の隙間に米が少し落ちてしまった。
かまどの周りはもう熱くなっていたから
落ちた米を拾うのが面倒で、
私はその時、その落ちた米をそのままにしてしまったのさ。
それが原因でその生を終えた後、
私が生まれ変わったのは牛だった。
その時から私が食べ物として与えられたのは藁と草さ。
でも罪はそれでは終わっていなかった。
私は長い間、それはそれは辛い思いをさせられた。
人は私を死ぬほどこき使った。
そうして死んだ後も簡単に土に返してはもらえなかったのさ。
私の肉を喰い、骨はスープにされた。
皮は太鼓の皮として使われてさんざん叩かれ、
最後に残った頭さえも土に返ることはできずに
こうして木の上につるされている。
だから私は今もその業のことを思い出すと
自分自身の愚かさに笑ってしまうのさ。」と。
—————————————-
この話を読んでから
生き物が死んで土に返ることについて
よりスリランカ風に考えるようになった気がします。
死んだものは早く土に返るよう埋めたり、
どんな生き物でも次の世でより良い生を受けるよう
想いを馳せたり・・・。
シンハラ語の勉強のために、
そして論文の研究のために、
これまで、たくさんのジャナカターを読みましたが
その中でもこの話は
スリランカの人たちの考え方について
ふとした時に思い出させてくれる話で
勉強になった気がします。
そもそも、このジャナカターの中にある
輪廻転生って日本の民話などでは
あまり出てこないキーワードなので
そういう意味でも印象に残ったんですよね。
もちろん、スリランカでも
こういう考え方をする人ばかりではないし、
輪廻転生ということを信じていなければ
見方も考え方も変わるんですが
でも、少なくともジャナカターとして残る程度に
この考え方は昔のスリランカではポピュラーだった
ということはいえるんじゃないかな〜?と思います。
スリランカの人たちと交流することが多いなら
こういう考え方をされることがあるって知っておくと
何かの時に役に立つかもしれませんね。💡

タイトルとURLをコピーしました