物事の見方

スリランカにいるとかなり頻繁に
「日本語を教えてくれないか」
と相談されます。
これは日本人で長期滞在をしていればかなりの確率でいろんなところで言われるんじゃないかと思うんですけど・・・。
もちろん相談する方はかなり気軽に相談して来ていて、金額もスリランカの日本語を教えている先生かそれ以下で教えてもらえるのではないかと期待をしていることも多々あって。。。
先日もそんなお手伝いの話を持ち掛けられて、どうしようかと悩んだ友人からの相談があった。
日本人はボランティアとしていろんな国に行っていろんな活動をしてるし、そんな中で国内に滞在している日本人にも気軽に声をかけるスリランカの人たち。
日本からのボランティアであれば日本から最低限の生活費の支給や何かがあっての上での話だからボランティアする人も無償ではないんだけど、スリランカの人たちにはそれがわからないですからね。
だから気軽にボランティアベースでの話を持ちかける。
でも!
この言葉がとても要注意な言葉だと思うんですよ。

スリランカ国内、高いお金を払って日本語を勉強している人がいる。
そして、高いお金をもらって日本語を教えている人たちもいる。
もっと言えば、日本語教師になりたいとがんばっている人たち、学生たちもいる。
その人たちは生きるため、生活していくために日本語を選ぼうとしてるわけなんだけど、そこで私たちがボランティアベースでお手伝いをしたらどうなっちゃうのか?
以前、私も日本語を教えて欲しいとお願いされた時、同じく日本語を教えているスリランカの友人に相談したことがありまして。
時間があるし、やろうかな〜?
でもその時にスリランカのその友人にこんなことを言われた。
「できれば私たちの仕事をする金額以上をもらってやってもらえたらいいな。
私たちがどれだけがんばっても追いつけないネイティブの人たちが金額を下げるとそれを理由にスリランカの日本語教師の単価が下がってしまうことにもなるでしょう?
だから申し訳ないけど日本語に置いて日本人は『日本人である』という価値がそこにあることをよく理解してそのうえで金額を提示してもらえればって思うよ。
スリランカで日本語を教える私たちの上に日本の人たちがいる。
私たちにとっても先生になる人が価格を下げれば下にいる私たちはどうやっても値段をそれ以下にしなくてはいけなくなってしまう連鎖となるのはわかるかな〜?
私たちは今、スリランカの日本語教師の価値をあげようとがんばってる。
もし私たちの今後のことを考えてくれるなら、そのことを考えてもらえると嬉しいな。」
そんなことを言われたのがもう4年ほど前。
私はスリランカが大好き。
そこで一生懸命生活しているみんなが大好き。
日本語を教えているスリランカの友人もたくさんいて、私よりも日本語という言語についてたくさん悩み、考えている彼らには私は頭が上がらない。
でもだからこそ私が日本語を教える時にはネイティブであるという理由だけで彼らよりも金額は高くしなくてはいけないんだって知ることができた。
それが彼らの生活を守るためになると思うんですよね。
お金がなくても日本語を学びたいという生徒がいるのも事実。
でもスリランカで必死に日本語を広め、生活して行こうとしている人たちの生活を成り立たせてあげることも考えなくてはいけないのではないかな〜?とも思う。
考え方は人それぞれで、何を大切にするかも人それぞれ。
でも何かをする時には
「1つのことだけでなく、いろんな方向から見なくてはいけない」
ってことなんでしょうね。

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