アンバヤールヲ最終回

毎日3時からの30分、楽しみにしていたけど始まりあれば終わりあり。
アンバヤールヲも今日で最終回。
ドラマは1回30分、全12話だった。
ドラマを毎日見ながらその部分を予習するように本を読んでいったから小説がドラマ化されてどのように変えられているのかも楽しみながらの毎日だった。
終わってみると寂しいけど、この話は子供用に書かれた話でもとても考えさせられる内容でもある。
この話は前にも書いたように初版は1957年。
お金持ちの家のスニルは毎日制服を洗ってもらえ、きれいな服が用意されている生活に対して貧しい家のニマルは1週間同じ制服を着て学校へ通っている。
そのくらいの貧富の差があった2人
でもスニルは貧富の差についての苦しさや格差にとらわれることなくニマルとの友情関係を築いていく。
ニマルは学校ではトップの成績だったものの結局お父さんの仕事を手伝わなくてはいけなくなり、学校を諦めなくてはならなくなる。
そうして諦めた直後、急にキャンディに引っ越したスニルの家で使用人として働くこととなる。
そのため普段はスニルは学校へ、ニマルはスニルにお昼ご飯を届けるようになる。スニルの家の家族もニマルには使用人に対する冷たい態度を取る。
いろいろな周りの勝手な都合で振り回されながらもそれでも2人の関係は変わらず、お互いのことを思いやり、大切にしていくという話で、最後はいろいろあるもののスニルは最初に住んでいた自宅近くの村の学校へ、ニマルも国からの援助を受けてコロンボの学校に通えることになり、ニマルとスニル、2人の友情関係は続いていくというお話。
大学院でも何度も言われるけど小説や物語というものはその時代の状況を反映して書かれることが多い。
この話は子供用の読み物。でも題材としてはスニルとニマルの友情とそこにあった問題について書かれている。
それは同じ年頃の子供が一方では学校に通い、一方では使用人として働かなくてはいけなくなったということ。
それがこの小説が書かれた時代にあった社会問題の一つだったのだという。
大人なら自分のやるべきことは何なのかを考えることはできるけれど、10歳の子供にとって学校で成績がトップだった尊敬する親友が自宅で使用人になるということ、反対に働く本人はもっと勉強したいのに学校を諦めて働かなくてはいけないということ、そういう社会というものはどうなのか考えてみようということをこの本の作者、T.B.イランガラトゥナは言いたかったのではないかと思う。
実際に私も10歳ではなくてもスリランカのある家で、その家の子供と一緒の年の子供が働きに来ているところに遭遇したこともあった。
学校に行く年頃の子供が働くのは違法であるはずのスリランカだけど、実際にはお金がないからと親が子供を働きに出してしまうことだって現在でも実際にあること。
さらに働きに出ることができるのはそういった違法である年の子供を雇えば違法であるからこそ安く雇うことができるという弱みに付け込んで雇ってしまう雇い主もいるから。
働きに行った先に自分と同じ年の子供がいて友達と楽しそうにしていれば戸口に立って話を聞いていたくなるのは当たり前のことだし、その家の子が自分が行けなかった学校でどんなことを勉強しているのか、教科書を見たくなるのもよくわかる。
でも働く家の両親からは人の話を盗み聞きする、勉強の必要ない子が教科書を見てどうするんだ。そう怒鳴られる上に、自分達の子供を大切にしているのを目の当たりにして辛くないわけがない。
このアンバヤールヲは1957年の問題を書いたものだけど、現在でもその問題は全てなくなっているわけでもない。
もう50年も前の本だけどその内容は過去のものではなく、今でもこの状況になっている家があったとしたらそれがいいことなのか、今後は自分達はどのようにしていったらいいことなのか、難しくいえばそういうことについても考えさせられる話だと思った。
ドラマはここまででおしまいだけど、このアンバヤールヲの小説は続編がある。
来月ブックフェアーの時にでも続編を買ってスニルとニマルがどうなっていくのか読んでみたいな。

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