ココナッツと猿の話から思うこと

今朝、ネットで
「タイ、インドネシア、フィリピンではココナッツの実を落とすのを猿が行っている。」
という記事を見まして。
記事の内容としては動物虐待に当たるのではということも含めて猿の現実を知ってほしいという感じだったんですけど・・・
記事が読んでみたい方は[[pict:right]]こちら
正直これを読んで、
「猿!すごい!!そんなことができるなら、なんでスリランカでもやらないの?」
と思ってしまいました。
スリランカでは猿にココナッツの実を採取させるって見たことがないです。
もちろん人間が木に登ってやってるんですが、当然ながら昔ながらあるココナッツというのはとても高い木に成長するので危険です。
そこに命綱もつけずに登って行ってココナッツを落とすということはもちろん落下事故もあるわけで。
猿を強制的に連れてきてココナッツの実を採取させることがどうかは置いておいて、人が木に登って採取するよりは猿にやってもらった方がたぶん断然早いし、普段からココナッツの木に登って遊んでいる猿を見かける私としては人間が登って落とすよりは猿にやってもらおうと考えるのは賢い気がするんですよね。
でも、S氏の家のココナッツの小さな畑もいつもお願いするのは猿じゃなくて人間。
「どうしてスリランカでは猿を使おうとしなかったんだろうね?その方が安全だし便利じゃない?」
とふと聞いた私の質問に対して、S氏の答えは
「だって、動物だって自由に生きるべきでしょ?」
でした。
確かにね・・・。
スリランカでも街中の人たちはそういう考え方はしなかったりするけど、動物が身近にいるところに生活している人たちってこういう考え方をする人が多いです。
で、この記事では猿がかわいそうだって意味で取り上げられていたけど、それは日本人から見た感覚。
もちろんこの記事は日本語で書かれているから主観は日本人目線。
でも、目線をスリランカに変えると違って物が見えてくる気がします。
ただし猿に対してじゃなくて動物に対して。
記事では猿に鎖をつけて拘束して・・・って書かれてたけど、スリランカ滞在をするようになって日本で犬や猫に首輪をしてリードをつけて散歩に行くことに関しても見方によっては虐待と取れなくもないって思うようにもなりました。
もちろん私は日本人だし、日本で育ったし、その方法が日本社会において必要だったってことは分かっているけどそこに動物の気持ちも汲み取ってあげないとと思うのであれば、首輪をしてリードをつけて人間と常に一緒に歩かれる犬や猫のストレスは??
そこにストレスがないと思うのは間違いで、スリランカのほとんどの犬や猫はリードなしで自由に生活してます。
しかも用を足すときには人のいない静かなところへ一人で走っていって、用を足してきます。
その時に誰かに見られていると恥ずかしくてできないんだって言われます。
確かに見ているといつまでもうろうろして匂いを嗅いでいるだけだし、用を足している場面って見かけることは思う以上に少ないです。
私も日本で犬を飼っていた時、いつも散歩で一緒に歩いてふんの処理もしていたんですが、小さいころからの慣れとはいえ、なんてかわいそうなことをしていたんだろう?ってスリランカの犬や猫のことを知ってから思いました。
とはいえ、それも日本の社会のありようからするとどうしようもないことなんですけど、日本のことしか知らなかった私はそんなことにも疑問を持ってあげられなかったんですよね。
でも、猿に鎖をつけて自由を奪い、ストレスをかけるのが虐待だというのであれば、スリランカの犬や猫がもし人間の言葉を話せたら、日本の犬や猫の生活は虐待だと訴えられるんじゃないの??
結局それは視点を置く場所が変われば見方が変わるということ。
世の中自分の考えが足りていないことって多くて難しいな〜
って学んだ瞬間でした。
そしてこの記事を読んでもう一つ思ったことは、そんなココナッツを落とす仕事を猿にやってもらい、効率を上げて生活を助けてくれている人が猿を大切にしないことってあるんだろうか?っていうこと。
この記事を書いた人はそれができると思っているってことなんでしょうけど。
スリランカだったらまず絶対に自分の生活を助けてくれている動物をぞんざいには扱わないです。
それはスリランカに限らず、どんな国の人でも自分の生活を助けてくれる動物には時には厳しいこともするかもしれなくても、必ず感謝と愛情を持って接する場面があるはず。
そういう意味でもこの記事はすべての理由をちゃんと聞かずに必要なことだけを短時間で聞いたことを自分の主観で書いた場合の文章みたいだとも思いました。
そしてさらにもう一つ。
ココナッツを猿に取らせるこのやり方が虐待だという人は、ココナッツの採取の大変さを知っているのか?とも思いました。
ちょうど先週S氏とココナッツの採取をする人のことを歌った歌について話をしていたんですよ。
こんな歌なんですけどね。


この歌はココナッツの採取をするお父さんを持つ娘が妹に対して歌っている歌。
内容としては
「100個のココナッツを落としてもお父さんにはココナッツ1個の利益だけ。」
(だからその最後の一つも欲しいってわがまま言ってはダメよ。)
という歌なんですけどね。
聞いているだけで生活の大変さ、この姉の我慢が見えて泣けてくる歌です。
スリランカではびっくりしたときに息を勢いよく吸って叫んだりすることは良くないことだと言われてます。
だから、
「お父さんがココナッツの木に登っているときに風で木が大きく揺れて危ないと思っても勢いよく息を吸って驚いてはダメよ。
お父さんが木に登っていくとき落ちるんじゃないかと怖くなったらギュッと目をつぶっているのよ。私もそうして我慢したの。

まだ小さな妹にお姉さんが歌って教えているんですよ。
ココナッツの木に登るお父さんを地面で待つ家族の心の痛み。
でもその恐怖から解放されたくて木のぼりの得意な猿を使おうと思ったのであれば、木に登る仕事をする人の安全を願う家族としてはとてもうれしいことだったんじゃないかと。
猿のしつけ方や管理の仕方が本当に記事の通りであればそれは確かに問題かもしれない。
でもそれでお父さんを失うのではないかと毎日帰りを心配しながら待っている家族からすれば猿であってもその危険な仕事を代わってくれるのであればきっとそれは天の助けだったんじゃないのかな?
ココナッツを採る猿との付き合い方、飼い方にはもちろん注意は必要。
でもそれがかわいそうだとやめたら、今度はココナッツの実を採るために猿を使っていた人たちの生活はどうなるのか?
ココナッツって、1個いくらで売られているのか知ってるのかな??
日本みたいに1個数百円で売られる世界じゃない。
この人たちが一日に得られるお金はいくらで、どのような生活層の人たちなのか、それをわかった上でこの記事で呼びかけるなら・・・もう少し書き方はあったんじゃないかと。
もちろん動物愛護団体が人間の生活度外視で書くなら、もしくは読者獲得のシェア狙いで書くならすでにシェアもかなりの数だし、この書き方で間違いはないのかもしれないけど。
今回の記事では猿のことばかりを取り上げて、その結論はそうして採取されたココナッツオイルの購入を今一度考えようというもの。
その恵みで生活をしている人のことについては書かれていない。
ココナッツを採取することの大変さ、猿のことだけに注目するのではなく、その仕組みが出来上がった社会のありよう、そこに暮らす人たちの問題や文化、そういうことにも注目しないと本当のことはわからないんじゃないかな?
そう思ったのでした。

タイトルとURLをコピーしました