今日もシンハラ語と日本語問題

今日はあるフェスティバルに呼ばれて珍しく行ってきました。
普通フェスティバルとか何とか式とか日本に関係のあるイベントには全く顔を出さないんですが、今回はシンハラ語を学ぶ者としてちょっと興味のあるイベントだったので出席させてもらいました。
どんなイベントかというと日本の笑いの文化をスリランカに輸出したら受け入れてもらえるのか?
という調査を含めたようなお披露目会。
内容はどうかは置いておいて、これまたスリランカの文化と日本の文化の難しさを感じました。
「笑い」って私も日本の古い笑い話をシンハラ語にしたことはあるんですが、内容がかなり限られてくるんですよね。
更に「笑い」って細かく言うとその笑いを見せる場所(国)の時事問題、流行、そういったものも取り入れられているからこそ、それを日常的に知っている人はさらに笑える。
そういう状況になるわけです。
少し前にギリシャ演劇についての本を読んでいたんですが、その中でなるほどとうなずけたのは
「悲劇」は時代を超えることはできるけれど、「喜劇」は時代を超えるのは難しい。
という話。
ギリシャ劇で現在上演されるのはほぼ悲劇。
喜劇の上演が難しいのはその喜劇のベースとしてその喜劇が作られた時代のギリシャの時事問題が取り入れられているから。
それを他の国の、更に時代の違う私たちが見ても意味がわからなくて笑えない。
だからこそ喜劇の上演は少なくなる。
確かに!!

と思う納得の話だった。
そういう意味で言うと日本の笑いというのは日本の文化、日本の時事問題をベースに成り立っていることが多いし、もちろんスリランカの場合も一緒。
毎週末スリランカで放映されているショートコントの番組でも、政治家を面白おかしく笑いに取り入れているものがあるし、その他のものでも「スリランカあるある」をベースにした笑いが多い。
そういう目で見てみると日本の笑いを直接スリランカに持ってきたらどうなるか?
というとこれはなかなか内容を選ばないと難しい。
さらにそこにはその国の言葉独特の持ち味を持つ言葉遊びも使えない。
これもまたスリランカと日本の文化と言葉だな〜。
先日の支援の話を聞いたときにも文化と言葉のことを考えた(2015年8月26日参照)けど、
今日もまた文化と言葉について思いを巡らせた日でした。

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