シダッサンガラーワの勇気

以前、シダッサンガラーワという本について、その詩の中で言っていることは「当時で考えても間違っているのが定説で、カトゥワラヤー(著者)が間違って書いたその理由もわかっていて、世の中で最初のことをする難しさと勇気を知ることができる。」2013年4月18日参照
という紹介をしたけど、試験も終わって落ち着いてきたので今日はその内容についてちょっと難しい話をば。

シダッサンガラーワという本に書かれているのはシンハラ語の文字について。
このカトゥワラヤーは初めてシンハラ語の文字の数を明確にした。
でもこの文字の数を明確にすると同時にカトゥワラヤーは長音という文字を短音の変化した物ではなく、別に長音として分けられると書いている。
どういうことかと言うと、シンハラ語を勉強する時にまずどんな文字があるのかと50音の文字を探すのが通常だと思うけど、その時に最初に出てくるのが母音。
シンハラ語の母音は

のように始まる。
これは日本語の「あいうえお」に似てるけど、違うのはシンハラ語は「ア、アー、イ、イー、ウ、ウー・・・」とアイウエオと共に長音が入っていること。
そしてこの長音が入るんだということを書いたのがシダッサンガラーワのカトゥワラヤーだっていう話。
あら、私の勉強した文字もそんな古い昔の人に関係していくの!?
そう思うとシダッサンガラーワという本がただの難しい昔の知らない人の本という気がしなくなってきません?
これがシンハラ語の醍醐味なんですよ[[pict:symbol7]]少なくともKeikoはこういう話で感動するタイプです[[pict:symbol4]]
Keikoのことについては聞いてないって?
[[pict:piyo]][[pict:pika]]
確かに。
[[pict:alien]][[pict:ase]]
じゃ、再度シダッサンガラーワの話。
この長音文字を50音に入れると書いたのはシダッサンガラーワが初めて。
でもこの本は西暦1300年ごろに書かれた本。
どうしてもっとずっと昔からあるはずのシンハラ語の長音について西暦1300年に議論されるのか?

それはシンハラ語には元々長音表記が無かったから。
長音表記が無いという意味は長音が無いという意味ではなく、長音を表す文字の書き方が無かったということ。
というのも本当に長音の発音が無かったのかというとそれは当時の人でない限りわからない。
当時の人には聞けないことを考えると、今残っている文字や本を解読して探るしかないけど、それを調べてもミヒドゥヒミ(マヒンダ僧)がスリランカに文字を持ってきたとされる紀元前3世紀から8世紀の始まりまでの間は残っている文字、文献を見ても長音表記が見当たらない。
大学院ではミヒドゥヒミが持ってきた初期のシンハラ文字を読むことも勉強するけど、そこでも有名なデーワーナンピヤティッサ王(ミヒドゥヒミが仏教を伝えた王様)の名前も「デワナピヤティサ」と表記されてる。
でも、通常シンハラ語の発音から考えてもこのデワナピヤティサという王様の名前はこのままではどうも発音がしにくいし、おそらくこの王様の名前はデーワーナンピヤティッサであったのだろうと考えられて今は日本のガイドブックなんかでもデーワーナンピヤティッサと書かれている。
そんな長音があったかどうかはわからないけどとにかく長音表記が無かったシンハラ文字にも8世紀をすぎると長音表記があちこちに見え始める。
そしてそれからシダッサンガラーワが長音はシンハラ語の一つの文字であると書くまでに更に550年ほどの年月がかかっている。
要するにこの間の550年間、長音表記を使いながらそれまでに本を書いた誰もが「長音は独立したひとつの文字である」とは書かなかった。
そんな中でシダッサンガラーワのカトゥワラヤーが初めて「長音は独立したひとつの文字である」と書いた。
この勇気、すごい[[pict:kirakira2]]
と思う。
550年間誰も書かなかったことを書き残そうという想い。
そしてこのカトゥワラヤーはこれだけではなくもう一つこの50音に入るとした文字があって、それがビンドゥワ(ゼロ)と呼ばれる・・・
コレ↓

この文字もカトゥワラヤーはそれよりも前に書かれた本を調べ、カウシルミナやいくつかの本の中でこのビンドゥワがある言葉を例に挙げてこれも一つの文字なんだと書き記した。
それ以前の文法について書かれた本ではビンドゥワは50音に含まないと書かれてることもあった中で、ビンドゥワを50音に入れるためにカトゥワラヤーはとても努力をしたことが分かる。
もちろんこの時代、このことを口頭で言っていた人は他にもいたのかもしれない。でも口頭で何かを教えているだけなのとそれを書いて後世に残すこととは少し違う。
誰かが書かないとそれは残らないし、現代になっても実際私たちはこのシダッサンガラーワを参考にシンハラ語や文字について学ぶ。
だからこそこれは偉業であったと言われるわけ。
でもじゃ、なぜこのシダッサンガラーワの50音が間違っていたの?というと、最初に書いた

↑この50音の始まり部分、最初にあれ?と思った人もいるかもしれないけど、今の50音の母音の数と比べるとしょっぱなから少ない文字がある。

2つが無い。
とこれがシダッサンガラーワの間違いといわれるところ。
シダッサンガラーワではは1音(母音)であり、は2音(子音のようなもの)であると考えている。
そのためであり別にする必要はないとしていた。
でもこのカトゥワラヤーの本を読んでいくとシンハラ語の詩を作るときの音数の数え方の規則とのズレが生じてうまくいかなくなり、を2音にしたものではないことがわかり、間違いであることが分かる。
でもここでカトゥワラヤーがそのことを書けなかったのには迷いがあったのではないか、そう考えられている。
それは
[[pict:1]]これまでの本にはやっぱり誰もとは別のものであるとは書いていなかったこと。
[[pict:2]]原始や古代のシンハラ語の中でも表記が見当たらないこと。
[[pict:3]]シダッサンガラーワよりも前に書かれた文法の本にもの文字が書かれていないこと。
長音とビンドゥワは絶対に入れなくてはいけない。そう思いながらもについては言いきることができるほどの信念と理由が探せなかったカトゥワラヤー自身の気持ちも分かるシダッサンガラーワ。
これと同じようにサンニャカと呼ばれるの文字も入れていないことを考えると、前回紹介した詩では
母音は5つ − 長音と合わせると 10個
子音については 20個 − 文章を作るときに使われるのはそれだけ

といっていた。
シンハラ文字は母音5つ、それぞれに長音があるから10個子音20個。
全部合わせると30個になるけど、実際はこれにを合わせて当時のシンハラ文字は36個あった。
というのが今の大学院で教えられる授業。
授業でもシダッサンガラーワのこの本と共にカトゥワラヤーがどのように考え、どのように悩み、迷い、この50音の文字を選んだのか、ただ文字を並べるだけでなくて今は推測しかできないカトゥワラヤーの努力と共に教えられる。
そしてどのようにであっても、間違っていた部分があったとしても、このようにカトゥワラヤーは努力し、それまでに無かったシンハラ語の文字についての説明を残した素晴らしい本と紹介される。
日本ではこういう日本語の文字、それについて書いた人のこと、そういうことは私は聞いたことがないけど、自分たちの使っている言葉、文字についてここまで深く考え、カトゥワラヤーのことを称賛しながら、訂正もしながら教えられるこの授業は私にとっては本当に面白いと思う分野。
シンハラ語を通して文字の歴史の面白さを教えてもらったし、初めてすることの勇気と難しさも一緒に教えてもらった授業だった。
・・・ちょっと説明が多くてわかりにくかったかな〜?
でも挫折せずに最後まで読んでくださった方がいたなら・・・
こんなマニアックな話に付き合ってくださってありがとうございました〜[[pict:exclamation2]][[pict:kirakira2]]

キャラニヤ大学の先生が書いたシダッサンガラーワの本
大学院の授業での参考図書でした。

タイトルとURLをコピーしました