命をいただくという事

久しぶりに鶏肉を買ってみました。
スリランカの場合、スーパーで買えば日本のようにパーツごとでも買えるんですけど、私の場合スリランカカレーを作るので1羽ごと買ってきます。
もちろん生きてるのを買って来るんじゃなくてすでにお亡くなりになって羽がむしられてるのを買って来るんですけどね。
それを家で各パーツごとに分けて冷凍保存します。
スリランカカレーを作る場合は骨があるとおいしくなるし、タンドリーチキンやブリヤーニを作る時には食べにくい内臓近くの細かい骨のある部分なんかを使うとおいしくなります。
ということで作るものによって必要な部分が違うので1羽ごと買って来ていろんな料理を楽しむわけなんですけどね。
今日は久しぶりになんちゃってブリヤーニを作ろう!と思って買ってきました。
作り方は2013年1月23日参照
すぐに解体してブリヤーニだから冷凍じゃなくていいよね。
と冷凍されていないものを買ってきたところ・・・
今朝潰しました。
みたいな鶏肉が袋から出てきました。
冷凍の鶏肉ってやっぱり大きな会社のものが多くて、そうするとやっぱり上手に冷凍されてるんですよね。
鶏肉に傷もなく、足や手が骨折していない状態で。
今回の鶏肉さん、手を骨折してるし、首がいつもより長く付いてる。
そしてその先からは呼吸するための気管が出てるし・・・
しかもこれ、死斑じゃないの・・・??と思う鬱血も・・・
生々しいな〜。
ホントスリランカの場合1羽ごと買って来ると命をいただくって感じがします。
でも今日のはホントに『いただく感じ』です。

いつものお肉より出て来る油も多い気がする・・・
屠殺場の映像って最近はインターネットとかでも見られるわけだけど、殺される瞬間ってこんな風になってるの!?ってびっくりする。
今まで知らなかったのは日本ではホントにきれいに、姿かたちがわからないくらいに上手にパックされて売られていて生きていた形と売られている形が頭の中ではうまくつながっていないからなんじゃないかと思う。
息を吸おうとしても首を切られて息が吸えないで何が起こったのかわからずに目を丸くしている牛の映像はもう私には勇気はないから2度と見えないだろうと思ったんだけど。。。
今日の鶏さんはそれを思い出させるような状況でして。
肩は肉がおされて潰れているし、足も変なところで骨折してる。
通常は別に袋に入れられてお腹に戻されているレバーも今日のはそのまま。
羽の付け根も乱雑にむしったようでまだところどころ根本が残ってる。
スリランカではベジタリアンもいるわけだけど、時々家族の中でお母さんだけがベジタリアンという家もある。
肉料理は作るけど食べない。
そうしたくなる気持ちも分からなくはない。
正直自分で解体して食べてると、食べる時にも
「あ、これは尻尾、これは折れてた足、こっちは気管が見えてた首。」
と自分で何を食べているのか良くわかる。
そうすると何となく、なるべくどこかがわからないところを優先して食べたくなってくる。
スリランカに来て自分で料理をするようになってから、ベジタリアンになっているお母さんたちの気持ちがわかるようになってきたと思うんですよね。
更に街中では朝、よく見かける鶏かごに入れられて運ばれていく大量の鶏たち。
お肉屋さんの前には空になった鶏かごとまだ鶏のいる鶏かごを並べておいてあることもあるくらいで、そうすると
「ああ、この鶏たちはこれから殺されるのか・・・」
と感じる。
それより先を考えると本当にお肉が食べられなくなりそうなのでイメージしないようにしているけど、私たちは確実にそうして命をいただいてる。
日本にいるよりはずっと命を身近に感じるんですよね〜。
『いただきます。』
という時、日本ではただしつけ、習慣として言っていた気がする。
少なくともそれがどのように運ばれ、お店に並び、調理をされてここに来ているのかをリアルにイメージしながら食べた事はあまりなかった気がする。
(イラストちっくにイメージすることはできていたんですけどね。。。)
でも今日は・・・
ブリヤーニを作って食べる瞬間、いつもよりも「いただきます。」の言葉に心がこもった気がする。
残さず全部、いただきます。
鶏さん、本当にありがとう。

ちなみにこちらはブリヤーニに使ったミーキリ=水牛のヨーグルト

まずはブリヤーニに使うために買ってきたわけですが、我慢できず・・・

ブリヤーニを作りながらキトゥルパェニをたっぷりかけてさっそく食べてしまいました。

先日の結婚式にはなかったしね!(まだ言うかw)
いや〜、やっぱりミーキリおいしいです[[pict:symbol7]]
水牛さんもありがとう!
ごちそうさまでした。

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